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| 1969年、ホンダのCB750は発売されると、世界を席巻しました。特にアメリカでの売れ行きは凄まじいものがありました。 皮肉なことに、トライアンフ社は早い段階でCB750を入手し、テストしていました。しかし、100マイルでチェーンが切れてしまった時点で、大きな誤算を犯します。「ほれ見たことか。日本人などにビッグバイクを作れるはずなど無いんだ。」当時の開発者はそう語ったと言います。 精密で頑丈、そして素晴らしいスピードを誇る日本車がトライアンフを駆逐していった過程、それはまさに1950年代にトライアンフがそのツインエンジンの信頼性とスピードで、ハーレーダビットソンを駆逐した、その歴史の再現でした...遂に役者が交代するときが来たのです。伝統のツインエンジンは熟成を重ねていたとは言え、開発からすでに32年が経過していました。 トライアンフ社とて、その間ずっと手をこまねいていたわけではありません。多くのプロトタイプが作製されています。1949年には直列4気筒OHVを試験していますし、1952年にはOHC500ccツインエンジンを試作しています。しかし、1969年のCB750登場のころには、社内でも「会社はいつ潰れるのだろう?」と囁かれるまでになっていました。 これは、ひとえに経営体制の悪化と資金繰りの悪さが影響しています。アポロが月面着陸を成し遂げた1969年、トライアンフそしてBSAの開発部は「宇宙時代」と呼ばれたその時代には似つかわしくない旧態然としたものであり、充分な改革も行えないでいました。 この状況を憂えたトライアンフ史にその名を刻む巨人、エドワード・ターナーが遂に立ち上がります。彼は日本車が優勢を誇る中排気量市場での対抗馬として、350cc・OHC二気筒34馬力の「Bandit(バンディット)」を生み出します。BSAでは「フューリー(Fury)」の名称で発売される予定だったこのマシンは180km/hの最高速度と完成されたシステムの、技術の粋を凝らしたマシンでした。 試乗した雑誌社などの人々は「これで英国車の巻き返しが始まる!」とこぞって賞賛していただけに その落胆は激しく、そして同時に英国バイク産業が死期にあることを世界の内外に知らしめてしまう結果となったのでした... エドワード・ターナーは1954年に日本を訪れています。そして、そこでターナーは勃興中の日本のバイク産業を視察しました。その帰路、ターナーは運転手のフランク・グリフィスに次の様に語ったと言います。 |
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