Maker of Month -November-
Triumph <1> (1902-現在)


トライアンフの市販第1号車(Triumph No.1 ,1902)

 肝心のトライアンフの歴史は?というリクエストがありましたので、今回からはトライアンフの歴史を概観します。
 しかし、トラ社の歴史は古く、かなりの研究もなされているわりに、結構書籍によって記述が食い違っていたりするわけで...最も信頼出来るソースとしては、やはり現地の歴史研究家の投稿・検討の対象になって改訂を繰り返してきたIan Chadwick氏のサイトかと思われます。そこで、Chadwick氏の許可を得て、同氏のサイトを下敷きに、数回に渡ってトラ社の歴史を記述していきます。(ただし、筆者の勝手な加筆があるので、精確な記述をご希望の方は元サイトをご覧下さい。)
 第一回はトライアンフ社の創世記。イギリスにふらりとやってきたドイツ人青年、ジークフリード・ベットマンの立志伝から始まります。

【ドイツからきた男】
 1883年、ドイツのニュルンベルク出身の青年、ジークフリード・ベットマン(Siegfried Bettmann,右写真は晩年)が英国のコベントリーにやってきました。このとき彼はまだ20歳。彼は地元の出版社に翻訳編集者としての職を見つけ、働き始めます。ベットマンはたちまち頭角を現し、北ヨーロッパ全体のセールスマネージャーにまで昇進します。この年、ダイムラーとマイバッハによって、世界最初のオートバイが試作されたと言われています。
 翌年1884年にはベットマンはロンドンで商社を興します。主力商品はウィリアム・アンドリュースがバーミンガムで生産していた自転車でしたが、そのブランド名は会社名である「ベットマン」と名付けられていました。この自転車をヨーロッパに輸出する一方、ベットマンは人脈を生かしてドイツからミシンを輸入し、成功を収めます。産業革命入以来、ミシンは非常に重要な機械でした。ミシンという日本語自体、Sewing Machine、つまり「縫製機械」の機械(マシーン)の部分がナマったものであることからも、当時は機械として最重要で、もっとも身近なものであったことがわかると思います。紡績、縫製と言った分野は、当時の花形産業だったのです。(この翌年、1885年には歴史家たちから「名実ともに世界最初のオートバイ」とみなされている車体がドイツのダイムラーによって開発され、走行しています。)
 そして1886年、ベットマンは社名を「トライアンフ(正確にはこの時点ではTheTriumph Cycle Company)」に変更します。この単語が社名に選ばれたのは、まず語感が良いということ、そして「勝利」というこの単語の意味と発音が、ヨーロッパの多くの言語において共通であったためと言われています。

【創世記の天才・シュルト】
 翌1887年、ダンロップ・タイヤとの合弁企業となったトライアンフ社はベットマンの地元・ニュルンベルクから熟練したエンジニア、モーリス・ヨハン・シュルトを招聘します(左写真はヒルデブランド=ウルフミュラー製バイクに試乗するシュルト)。彼はすぐにベットマンの腹心の部下となります。シュルトはベットマンに対し、トライアンフ社はこれまでの輸出入業だけでなく、自社製品を生産して販売するべきだと提案し、ベットマンはこれを受け入れます。
 トライアンフ社の行動は早く、翌1888年にはコベントリーに工場を開設し、独自の自転車を生産し始めます。設立資金の半分はベットマンの一族から、そして残り半分はシュルトの一族から供出され、これに加えてダンロップ社が投資しました。つまり、トライアンフはドイツ資本とドイツ技術者たちをベースにして始まったイギリスメーカーだったのです。
 1889年、工場は本格的に操業を開始します。これに伴い会社は本部をロンドンからコベントリーに移しました。ベットマンがコベントリーに舞い戻ったのは当然の流れです。既に各メーカーの歴史で述べてきた様に、コベントリーはイギリス国内における自転車メーカーが多く集まり、一大生産拠点となっていました。

 そして1902年、シュルトの手になるトライアンフの市販第1号オートバイ「ナンバー1(トップ写真参照)」が誕生します。ベルギーのミネルバ社製エンジンを搭載したこの車体は2.25馬力のものでした。(この1902年がトライアンフ社の創設年とみなされています。)翌1903年にドイツに支社も構えたトライアンフ社は500台を売り上げます。しかしこの時点ではエンジンはミネルバ、ファフニール、JAPと言った他社のOEM供給によるものでした。
 「純血」のトライアンフ車は、1905年になって登場します。これは同時に、英国純血種の最初のオートバイでした。シュルトと開発技術者のチャールズ・ハサウェイによる300cc・3馬力のこの車体はフロントにスプリングサスペンションを備え、クランクシャフトをボールベアリング支持としていました。改良を受けた1907年モデルはダッシュウッドのヒルクライムで優勝し、トライアンフに初めてのレースの栄冠をもたらしました。
 1908年にはプーリーミッションを搭載、68km/h以上の最高速を叩き出してマン島TTレースで優勝を遂げたことで、セールスもうなぎのぼりに向上しました。

【モーターサイクルの発達】
 自転車に付属物が付いただけのものだったモーターサイクルはこの後、格段の進歩を遂げていきます。トライアンフもその進歩をリードしつつ、クラッチ、ミッション、サスペンションといった現代車にも備わっているメカニズムを発明し、あるいは貪欲に取り入れていきました。
 例えば1911年にシュルトが開発した「フリー・エンジン」モデルは、1908年にシュルトが発明し、特許を取っていた多板クラッチをリアハブに備えていました。クラッチシステム自体は他のメーカーですでに試されていましたが、現在のオートバイにも使われている多板クラッチが市販車に搭載されたのは、これが最初と言われています。
 クラッチが無いオートバイを想像してみてください。それまでは、ライダーは押しがけやペダル駆動(モペットの要領です)でエンジンを始動したら、その後は車体の横を走って飛び乗り、そのまま走り去るしか無かったのです!クラッチの登場により、エンジンをかけたあと、暖気しながら友人に別れの挨拶をするだけの余裕が生まれたのは、画期的な発明でした。

 この1911年には、4つの3.5馬力モデルが販売されていました。ロードスター、フリーエンジン、TTロードスターそしてTTレーサーです。レーサーの最高速度は80km/h以上をマークしていました。イアン・ハート・デイビス、ジョン・オグローツたちがイギリス縦断レースにこのモデルを駆って出場し、29時間12分という記録を成し遂げました(平均速度は50km/h)。またアルバート・カット(右写真)は6日間で2400(2557?)マイル(4000km)を走破する、という偉業を成し遂げました。

 この時代にはバイクメーカーも次々に生まれます。初期のインラインフォア(4気筒)を作ったヘンダーソン(アメリカ)、リーバイスを始め、シンガー、シュープリームといった今は無きメーカーたちも雨後の竹の子の様に生まれました。構造的にも大躍進が続き、それまでのハンドスタータやペダルスタータにかわり、キックスタータが採用されるようになります。ハーレーがVツインエンジンを作り始めたのもこの時代です。

【ベットマンの成功とシュルトによる発達】
 1913年には創立者であるベットマンがコベントリーの市長に就任します。この一事をとっても、トライアンフ社が抜きんでた成功を収めていたことがわかります。30年前にドイツから来た青年は、すでに地元の押しもおされぬ名士となっていました。
 ベットマンが政治活動中心にシフトした中、トライアンフ社を預かったシュルトは水平分割型クランクケースを持つ並列二気筒エンジンを試作しました(水平分割クランクケースは、技術上の問題もあって市場に登場したのは1950年代に入ってからです)。
 さらにこの年、市販車としては3年ぶりとなるニューモデルが登場しました。2ストローク225ccの「ジュニア」です。最高速度35マイル(56km/h)のマシンでしたが、「女性向けの足」というニッチを狙ったこのモデルは「ベイビー・トライアンフ」と呼ばれてヒットしました。後に1916-1920年にはアメリカ・シカゴのイグナズ・シュウィンが(買収していたバイクメーカーである)「エクセルシオ(Excelsior)」の名前で269ccにボアアップしたジュニアをライセンス生産・販売しています。(このシュウィンは現在も有名な自転車メーカーである、あの「Shwinn」です。)ヴェロセット、ノートンと言ったメーカーが登場したのもこの時代でした。

【第一次世界大戦】
 1914年までに、トライアンフ社は年間4000台の単気筒車を生産するようになっていました。この頃には会社の主業務をおこなうようになったシュルトに代わって、ハサウェイがチーフデザイナーを務めています。フラッグシップモデルは550ccの「タイプAロードスター」で、当時としては信頼性の高かったBosch製のハイテンションマグネトーを装備していました。
 そして夏。オーストリア皇太子を襲ったセルビア人青年の凶弾をきっかけとして、第一次世界大戦が勃発します。当然ながらトライアンフも、連合国側に車体を納入するようになります。トライアンフ社が戦場に送り込んだのは、シュルトによりデザインされた、チェーンドライブを備える「タイプH」でした(右写真:1914年製Type H)。550ccサイドバルブ4ストローク、そしてスターミー・アーチャーの3速ギアボックスを備えるこのマシンの信頼性は、並み居るライバル車と段違いのものでした。戦場という極めて過酷な条件の中で、いつしかタイプHは「Trusty Triumph(頼りになるトライアンフーもちろん、Tru、の音が韻を踏んでいるわけです。つまりダジャレ。)」と呼ばれる様になりました。
 結局、戦争中には30000台にも及ぶタイプHが生産され、戦場へと送り込まれました(うち20000台はイギリス軍への納入)。なお、この時の英軍のモーターサイクル仕入れ担当者のクロード・ハルブルック大佐は後にトライアンフ社に天下りします。...なんか、ちょっと胡散臭いものを感じますね(笑)

 そしてこの1915年。初めてオートバイに乗ったある14歳の少年が、魂までその魅力に取り憑かれました...彼の名前はエドワード・ターナー。この少年が、後にトライアンフの黄金時代を築き上げる男となることは、この時点では誰も知る由もありません。

 とまあ、半年遅れでやっと英車コラム・トライアンフ編の1回を訳出・編集しました。このペースで行くと2年くらいかかるか!?すんません...まあ、期待せずに待っていてくださいませ。

【Apparatus Criticus】
Ianchadwick.com
http://www.ianchadwick.com/


Banbury-Run Official Site
http://www.banbury-run.co.uk/

RideTeamTriumph.com
http://www.rideteamtriumph.com/


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