Maker of the Month -October-
Norton (1898-1977, 現在も?)



 私事ですが、僕が始めて英車を強烈に意識したのは、箱根の峠でした。意味もわからず「速そう」と作ったカフェレーサー風の国産単気筒に乗り、天気の良い峠を鼻歌交じりにフラフラ走っていた時、凄い爆音と共に横を走り抜けていった車体がありました。
 椿ラインを登り切り、大観山ドライブインで休んでいたその車体の隣に停車したとき、その美しさに僕は衝撃を受けました。
 (「Norton」...ガイシャかな?)それがコマンドー・ファストバックという車体だと知ったのはかなり後のことでした。

 ノートン工業株式会社(Norton Manufacturing Company)は、チェーンなどの自転車部品を製作するメーカーとして、1898年にジェームズ・ランズドーン・ノートン(James Lansdowne Norton)によって設立されました。しかしそのわずか4年後、1902年にはベルギーのクレメント(Clement)社製エンジンを搭載したオートバイを作製しました。さらに5年後、1907年にはプジョー製エンジンを搭載したノートンを駆るレンブラント・フォウラー(Rembrandt Fowler)が初めてのツーリスト・トロフィーレースのクラス優勝を果たしたのです。1908年には当時としては破格の633cc単気筒エンジン「BIG 4」が登場し、人々の度肝を抜きました。
 このように創業者であるジェームズ・ランズドーン・ノートンは非常に優秀な技術者でしたが、経営の才には恵まれませんでした。上記の様な成功で高まった名声にもかかわらず、1913年には左前となって主債権者のR.T.Shelley & Co.が介入して経営実権を握りました。これによって「(有)ノートン・モータース(Norton Motors Ltd.)」が生まれます。
 続いて起こった第一次世界大戦で、ノートン社は英国政府との契約を勝ち取り、ロシア陸軍に納入するオートバイの生産権を得ました。この時に、ノートンの有名なロゴが生まれます。東部戦線での活躍や、先に述べたBIG4の活躍、さらに戦後1920年には3速ミッション、チェーン駆動のノートンがマン島TTで2位を獲得したことによって、ノートンの名は世界に轟きました。

 創業者であるジェームズ・ノートンは商才こそ無かったものの、技術者としての情熱、技量、そして高潔な性格の彼は広く尊敬を集めていましたが、1925年に56歳の若さで死去しました。
 この年、戦争の痛手から立ち直りヨーロッパ各地でおこなわれたレースにおいて、ノートンのオートバイはサドル型燃料タンクを装着し、各種のレースを総なめにしました。1年後の1926年、レース経験を盛り込んだ市販モデルが発売されました。4速ギアボックス、ドラムブレーキを備えたこの車体は、同年のマン島でアイルランド人のスタンリー・ウッズがノートンを駆って優勝したことでさらに名を挙げました。
 ノートン社は成功を受けて、さらなる新機構・OHCエンジンの開発に乗り出します。なんと翌年27年には、OHCエンジンを搭載したノートンがマン島の優勝をさらったのでした。

 1932年、フランスはモントルヘリーのレースにおいて、ビル・ラセイが時速110mph(176km/h)のレースレコードを叩き出します。この年に登場したModel 50とModel 55は、4速ギアボックスを備え、トランスミッションは購入時にハンドチェンジ/フットチェンジのいずれかを選択可能となっていました。1934年には1970年まで使われることになるプライマリーチェーンケース形式が開発、搭載されました。

 1939年、第二次世界大戦の勃発と同時に、ノートン社は1937年に設計された16HモデルとBIG4(サイドカー付き)のみの生産に切り替えます。戦争中には10万台のノートン車が生産されましたが、これらは全て軍用車両でした。
 戦後の1946年。生産が再開され、OHVのModel 18などがまず市場に送り出されました。1948年、ノートンはハーバート・ホプウッド(Herbert Hopwood)によってデザインされた新たなマシン、500ccのModel 7を発表します。
 ノートン社はアメリカ市場の開拓を狙い、デイトナに参戦します。ヨーロッパ市場にその名を示すならばマン島で勝つこと、アメリカ市場にその名を示すならばデイトナで勝つこと、というのは業界の定石であったからです。スティーブ・ランスフィールドとフランシス・バートをライダーとしたノートン・ファクトリーチームは1952年にOHCエンジンの使用が禁止されるまで、連戦連勝を続けました。これによってノートンはデイトナ出場を停止しますが、その後も新旧両大陸においてノートンは積極的にレースに参戦、好成績を収め続けます。1951年末にはModel 88 「ドミネーター(Dominator,OHVツイン。輸出バージョンがアトラス(Atlas)です)」が発売され、翌52年にはマン島TTのシニア・ジュニア両クラスを制覇、とノートンの大躍進は続きました。
 しかし1953年2月。在庫整理に失敗したために負債を抱えたノートン社は、AMCに買収されます。新しい生産体制では十分な予算を受けることが出来ず、ノートンは自転車操業を余儀なくされました。
 そんな中でもレイ・アムがマン島で優勝しました。しかも最高速度213.9km/hという記録更新のおまけつきです。ノートン社員はこれに勇気づけられ、1958年に新型250ccOHVツインエンジン「ジュビリー(Jubilee)」を生み出します。
 1959年、Model 19Sの生産が終了しましたが、そのために生まれた余力で他のModel50,ES2, Model 88, Model 99といった車体のマイナーチェンジが行われました。1960年にAMC-ノートン社はジュビリーの血統を受け継ぐ350ccモデル「ナビゲーター(Navigator)」を発表。さらに年末にはManxmanの650ccバージョンを発売します。好調なレース結果に支えられ、ノートンの売れ行きは次第に好転します...が、会社そのものの経営状態はまだ健全とは言い難いものでした。1961年のシニアTTでは名ライダー、マイク・ヘイルウッドが単気筒の最速記録を更新して優勝しました。ここが売り時であったにもかかわらず、Model 99, 88, 50とES2の生産は、1962-63年に中断します。
 1963年、ドミネーターの排気量が750ccに拡大され、その他の車種も改良を受けます。しかし売り上げは惨憺たるもので、AMCは第一次世界大戦の頃からノートン社の生産拠点であったブレースブリッジ工場を閉鎖しました。そして翌1964年には、親会社であるAMCそのものがMBH(Manganese Bronze Holdings Ltd.)社に買収されたのでした。
 暫時の後、1966年。コリン・シーリー(Colin Seeley)がAMCレースショップを買い取り、ノートンパーツの販売を始めます。シーリーは、当初はマチレスG50と7Rに興味を示して買い取ったのですが、後にノートンの優秀さにも注目し、Manx T3(300cc)とT5(500cc)の生産を開始します。折しもカフェレーサー・ブームのまっただ中。60年代の終わりには、ドミネーターなどに使用されて高い評価を受けていたノートンのフェザーベッド・フレームに、当時最高性能を謳われたトライアンフ・ボンネビルのエンジンを搭載した「トライトン(TRITON)」が売られるようになりました。
 1967年、アメリカの大手輸入業者であったジョー・バーリナー(Joe Berliner)が、マチレスG15のフレームにノートン750アトラスのエンジンを載せた車体を作製します。50馬力を誇るアトラスのエンジンはイギリスでは持てあまし気味だったために、よりキビキビとしたボンネビルエンジンを搭載したトライトンが好まれたわけですが、広大なアメリカでは存分にスロットルを開けることが出来たので意外と人気だったのです。トライトンの大成功以降、このように他社の優れた部分を組み合わせて最良のマシンを作る試みが多くなされていました。
 そんななかで、バーナード・フーパー(Bernard Hooper)が、太いトップチューブフレームにアトラスのエンジンを搭載することを思いつきました。このモデルは様々な部分で際だったもので、標準状態で3重のプライマリーチェーンを装備し、ファイバーグラスを多用した特異なマシンでした。この車体の生産は1968年4月に始まり、コマンドー・ファストバック(Commando Fastback)と名付けられました。この年のうちに工場がウォルバーハンプトンへと再び移転し、スラクストン飛行場の格納庫でテスト開発が行われました。そして1970年、ファストバックに改良を加え、名車として名高いコマンドー・ロードスター(Commando Roadster)が発表されました。
 コマンドーの特徴は、フレームとエンジンの間に生じるひずみ、振動に対する解決方法にありました。通常はフレームにエンジンを直接マウントするわけですが、コマンドーでは太い背骨となるフレームに対し、エンジンをゴムマウントを介して接続する、という方式(アイソラスティック・マウント)を取ることで、快適な乗り心地を実現しているのです。この効果は絶大で、スピードと乗り心地を実現した車体、としてコマンドーは非常に好調なセールスを記録しました。

※ただし、このアイソラスティック・マウントは、ベストな状態に保っておけば快適ですが、メンテナンスに気を遣う必要があるのも事実です。コマンドーオーナーの方は、アイソラの劣化や、エキゾーストパイプ・フランジの損傷(エンジンがフレームから自由に振動しているため、エキゾーストパイプとエンジンの接合部に負担がかかる)と、日々闘い続けています。

 しかし、コマンドーの好調な売れ行きも、日本車の台頭によって陰が薄いものとなっていました。さらに世界を中東危機によるオイルショックが襲います。
 1972年、ノートンはBSA-トライアンフ合弁企業グループと合併し、ノートン・ヴィリヤース・トライアンフ(NVT, Norton Villiers Triumph)となります。ノートンも、ほとんどの車体が他社製品とのパーツ共有によるコストダウンなどのために変更を受けました。3社の合弁となり、生産体制も縮小されたため、73年には750ccモデルがラインナップから消えました。
 そして翌74年には、ノートンは4工場のうち2工場(ウォルバーハンプトンとスモールヒース、しかも他社との合同)しか稼働を許されなくなり、さらに労働争議が活発化してスモールヒース工場が閉鎖されました。このストライキによってノートン社の負債は週20000ポンドの割合で増大し、年末には300万ポンドの累積赤字を計上しました。2004年現在の物価で換算すると、実に70億円以上の損失になります。1975年、それまで国内産業保護の立場をとってきた英国政府も、NVTに対する公的資金投入を遂に打ち切ります。ここに実質的にノートンの命運は尽きましたが、弁済整理のためにNVTエンジニアリングとしての存続を許します。その後も1977年までコマンドーの生産は続けられました。

 ノートン社は、その後も様々にかたちを変えて存続します。NVT時代から「P41プロジェクト」の名の下に開発が続いていたヴァンケルエンジン(ロータリーエンジン)は、1978年、NVT倒産後にその研究部門を基盤に設立されたノートン・モータース(Norton Motors)によって製品化され、79年にプロトタイプ「Mark I」が供給開始、81年にMark II(後にインターポールII(Interpoll II)となります)が発売されます。しかし主な供給先はその名の通り警察などで、一般にはほとんど出回りませんでした。このロータリーエンジン・ノートンはコマンダー(Commander)、F1などの一般向けを含むモデルに発展しましたが、90年代初頭には会社そのものの経営が悪化し、生産が終了しました。
 アメリカでは現在、ノートン・コマンドーの現代技術による再生計画が続いています。もう大分前から952 Commandoという車体は完成しており、発売を待つばかりになっていますが、商標権の問題が複雑になっており、係争中のためなかなか発売されない模様です...

【Apparatus Criticus】

Norton Commando
http://www.jerrydoe.com


Captain Norton's Notes
http://www.captain.norton.clara.net

Realclassic.co.uk
http://www.realclassic.co.uk

Norton Owners Club
http://www.noc.co.uk

Wankel Rotary Combustion Engines
http://www.monito.com/wankel/

Nortonmotorcycles.com
http://www.nortonmotorcycles.com

Motorcycles of 20th Century
http://home.planet.nl/~motors-20th-century/motors.html

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