Maker of the Month -August-
James (1902?-1966)

 ジェームズ社は、日本ではあまり知られていません。それはやはり、ジェームズが小排気量・軽量車を得意としたメーカーであり、真っ先に日本車に駆逐されたニッチに生きていたためでしょう。しかし、その日本車そのものが、ジェームズを大いに研究して作り上げられたものだったのです。
 今回は時代の狭間に消えたメーカー、ジェームズです。

 ジェームズ社(James Cycle Company)の起源に関しては、諸説があり定かでは無い部分が沢山あります。恐らく、当時星の数ほどあった家内工業的なギルドが発展した会社の一つだったのでしょう。しかし、1902年の時点では既に確立された自転車メーカーであり、この年には2ストロークエンジンを搭載した「原動機付き自転車」を開発しました。
 同年に誕生したトライアンフ1号車と同様、この車体はジェームズ製フレームに1馬力のミネルバエンジンを搭載していました。後輪はチェーン駆動になっており、この二次駆動系の動力伝達を繋いだり切ったりするためのレバーが取り付けられている他は、普通の自転車でした。この「ガソリンアシスト自転車」方式は画期的でしたが、セールスには直結しませんでしたので、ジェームズはしばらく、自転車の生産に集中します。
(右写真はそれよりも後、戦前のツインモデル)

 しかし1909年ごろには、ジェームズ社は続々と登場しつつあった「モーターサイクル」市場に再び興味を示し、1910年には「Safety Model」を発表します。左写真の通り、このモデルは非常に特徴的なフレームを持っており、見ての通りのVベルトによる前輪駆動、ステアリングは車体底面のリンクを介した後輪ステアリングというものでした。しかし前後ハブブレーキという、当時としては画期的な構造を備えていました。またこの独自のエンジンは、クランクシャフトの軸受けにベアリングを用いた最初のエンジンと言われています。
 今見ても斬新なデザインですが、この後ずっと1966年に倒産するまで、あくまでジェームズの作るオートバイはこのSafety modelに始まる
独自設計路線に基づいているのです。

 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ジェームズ社も戦時体制に入り、K15,K16という150cc2ストロークエンジンを搭載したマシンを生産します。この車体は主に空挺部隊における使用を狙って開発されたのですが、最終的なトライアルにおいて「まだ重量が重すぎる」などの改良の余地ありと判断され、軍には採用されませんでした。さらに改良されたK17も採用されませんでしたが、これらの開発失敗を経て、「ジェームズ・ML(James Military Lightweight)」が1942年に完成します。RAF(イギリス空軍)の判断は「まだ改良の余地は残ってはいるが、現時点で最良のマシンであることは認める」というものでした。...しかし、採用しようにも、肝心の「バイク用パラシュート」は誰も開発していなかったため、実際に空挺部隊が使用することは出来ませんでした。

 しかし同年に決行されたノルマンディー上陸作戦において、MLはその軽量性と砂地の海岸における走破性から「ゼンマイ仕掛けの鼠」の愛称を与えられるほど、大活躍したのでした。
 結果として終戦までに6000台のMLが生産され、陸軍や海軍にも提供されました。しかし戦況が終盤にさしかかり、悪路を踏破する必然性が減ってくると、よりパワーのある車両が好まれるようになり、MLは大量にジェームズ社に差し戻されるようになりました。このため、大量の在庫を抱えたジェームズ社は、戦後になって車体を赤に再塗装したMLを発売します。この車体が発展したのが名車と言われる「コメット(Comet)」です。
 コメットは、もともとジェームズ社が戦後、再び軍に採用されることを期待して作製した車両でした。しかしわずかにRAFに採用されるに留まり、空軍基地の滑走路上の移動手段などとして使われました。従って、このコメットは(空軍機色である)RAF-BS633ブルーグレーに塗装されました。

 その後、ジェームズ社は戦時中の研究を生かし、軽量車メーカーとしてその地位を築きます。特にトライアル競技(イギリスは、伝統的にトライアルが盛んです)では市場を席巻し、トライアル車と言えばジェームズ、という時代が長く続きました。

 1964年には、オートバイ史上に残る画期的な車体がジェームズから発表されました。この年、アールズコートで開催されたモーターサイクルショーでは専用のトライアルコースが設けられていました。ここに試乗車として供されたのがバッテリー駆動の「シバ(Siba)」です。伝説の女王の名を冠されたこの車体は、女性にも扱いやすく好評を博しました。しかし、実用的なレベルには達していなかったことから発売されることはありませんでした。

 しかしこのころには、既に日本車の脅威は本格的なものになっていました。ジェームズは既にAMC帝国の一員となって庇護を受けるようになっていました。そしてジェームズの主力商品は軽量車...それこそまさに、世界市場に日本車が食い込んでいった糸口でした。ホンダを初めとするメーカーは、信頼性・性能に優れ、しかも安い車体を続々とヨーロッパ市場にも投入していったのです。
 そしてジェームズにとっては屈辱的なことに、スズキがイギリスに最初に保有した車体・部品倉庫は、ジェームズ社の主工場の中を間借りしたものでした。戦争の記憶も生々しく、日本製品に嫌悪感を持っていたジェームズ社のタイピストたちは、スズキ本社へのパーツ注文・受領証などの書類をタイプすることを拒否したものでした。

 この様な状態に陥ったジェームズ社の運命はもう長くありませんでした。日本車の攻勢が本格的になった1966年。ジェームズ社はひっそりと、その歴史に幕を下ろしました。既にスズキもその工場を去り、自前で大きな倉庫を建設するようになっていたのでした。



【Apparatus Criticus】

Comet Restorations

http://freespace.virgin.net/mw.berrie/

※画像並びに文章の引用・転載に際しては原著作者の許諾が必要です。
本稿は現作者の許諾の下に編集製作されています。
各画像をクリックすると、引用元にリンクで飛びます。

←July