Maker of the Month -April-
Ariel (1912-1956)

 1870年、ジェームズ・スターリーはウィリアム・ヒルマンと友に「Ariel Cycle」として自転車製造業を立ち上げました。「アリエル(Ariel)」の名称は、シェークスピアの戯曲「テンペスト」に登場する風の妖精にちなんでいます。翌1871年には自転車の生産販売が開始され、丁寧な作りで細心の技術を盛り込んだ車体が好評を博しました。

 1872年、スターリーとヒルマンは別々の道を歩みます(ヒルマンは後に自動車の分野で名を挙げます)。この後、スターリーは彼の息子とともに自転車の改良を続け、レースに出場したり当時のスピード記録を破ったりしています。1880年代後半にはアリエル・サイクルはラッジ-ウィットワースコンツェルン(小規模自転車生産業者による団体)の一員となったため、アリエルの商標は一度歴史の表舞台から消えることになります。
 1890年代、アリエルの名前が再び歴史に登場します。この経緯を説明するには少々寄り道する必要がありますーーー1894年。ジョーイ・ダンロップ(現在もあるダンロップ社の創業者)が空気入りチューブタイヤを発明し、タイヤの性能が飛躍的に向上しました。発明から2年後の1896年、そのダンロップ自身が「ダンロップ・サイクル」を立ち上げ、自転車製造業に乗り出したのでした。

 これまでのコラムではダンロップの功績に触れませんでしたが、多くのオートバイメーカーが1890年前後に発生しているのは、ダンロップの功績によるところが大きいのです。それまでのタイヤは鉄のリムにゴムを貼り付けたものなどが主流であり、自転車も悪路では「歩いた方がラクだ」というくらい漕ぐのに力が要り、また乗り心地という点ではお話にならないものでした。ましてやオートバイには到底使えたものでは無かったのです...とにかく、このダンロップタイヤの発売にともない、自転車は一気に市民権を得たのです。

 ともかく、ダンロップの発明は画期的でした。全ての自転車メーカーがダンロップの発明品を採用するようになります。となると、ここに問題が生じてきました。「ダンロップ・タイヤ」があまりに有名になったため、「ダンロップ」は「タイヤ」の代名詞の様に使われる様になったのです。ジョーイ・ダンロップはここに至り、自転車製造部の名称を変更する必要があると考えました。このころすでにダンロップはラッジ-ウィットワースの企業の多くを傘下におさめていましたので、ジェームズ・スターリーの「アリエル・サイクル」の商標も使用できる立場にありました...ダンロッ
プの大発明は「空気入り」チューブタイヤです。対してアリエルは「風の精霊」。ダンロップ本社との関連性、そしてその発明の独創性を商標に込めるのにこれほど適切な名前はありません。かくして「Ariel Cycle Company(アリエル輪業)」が誕生したのでした。

 当初のアリエルは、自転車部品の生産を中心に行っていました。しかし1897年にデールロードに移転すると、自転車にエンジンを搭載する研究がスタートします。最初は三輪車から始まり、1901年には211ccミネルバエンジンを搭載した最初のアリエル・モーターサイクルが誕生しました。
 この車体の成功に気をよくしたアリエルは、MAG, J.A.Pの単気筒のみならずAKDなどのVツインエンジンをも搭載した車両を生産します。1926年まではこの様なエンジンをライセンス生産し、搭載した車両が作られ続けました。

 その中で1925年、アリエル社はJ.A.P.のデザイナーであったヴァル・ペイジを引き抜きます。彼こそはオートバイ史に残る天才の一人です。ヴァル・ペイジはアリエル車の改良に取り組みます。まず最初に彼は新設計のエンジンを作製しました。しかし車体の他の部分がこのエンジンの性能に付いてこなかったため、多くのパーツを改良する必要があり、結局1927年まで開発はかかりました。これによって生まれたのが、「アリエル・レッドハンター」として知られる名車です。250,557ccのサイドバルブ車、そして500cc OHVモデルなどが中心であり、この後四半世紀にわたってレッドハンターの名前は世界にとどろくことになります。
 1931年、レッドハンターが大成功を収めているころ、アリエルではもう一人の天才が動き出していました。後にトライアンフに移籍し、我らがツインエンジンを完成させることになるエドワード・ターナーです。彼はヴァル・ペイジの設計思想をさらに発展させたSquare 4(Sq4)、すなわちOHC角形4気筒500ccエンジン(上から見たときにシリンダーがサイコロの「四」の目の様にならぶことになります―の開発に没頭していました。1932年には600ccまでボアアップしたエンジンによってサイドカーを動かすことに成功します。しかしこの成功の直後、経営不振から開発は一時中断を余儀なくされたのでした。このために1936年にターナーはトライアンフに移籍し、そこで後のトライアンフ黄金時代を築いたツインエンジンを設計したのです。
 世界恐慌の波が過ぎ去ると、30年代の終わりにはプッシュロッドOHVに改良された600cc Sq4エンジンが再び登場します。すぐに1000ccにボアアップされたエンジンも作られ、第二次世界大戦後に至るまでこれらは活躍しました。

 この他にもざっと述べると、40年代にはアリエルは500cc V KHや、50年代ではSq4のアルミエンジン版「Mk1」、Mk1のバリエーションであるMk2なども生産しています。1954年、BSA影響下にあったアリエルはBSA A10をベースにした「650Huntmaster」を発売します。またこの年には200cc4ストマシン、Coltを発表。ヴァル・ペイジの手になる250ccツインの名車として名高いLeader、そしてArrowは1958-1966年にかけて生産されました。小排気量マシンはトライアルの分野でも活躍しました。300cc,500ccのHTモデル(スクラブラーのHSもありました)は多くの栄冠に輝いています。現在ではパーツプロダクターとして有名なサミー・ミラーもこのアリエルを駆って数々のトロフィーを獲得したのでした。この時代のアリエル車はBSAとの共通部品を沢山もっています。

 しかし、すでにこのころ大英帝国の斜陽は始まっていました。アリエルは実質的にBSAの子会社となり、1959年にはSq4の生産が終了、LeaderとArrowの生産に絞ることにします。1963年に長い間アリエルの拠点となってきたセリーオーク工場は閉鎖され、BSAのあるスモールヒースに移転します。
 この1963年にはBSA/アリエルのヘッドとしてエドワード・ターナーが返り咲いていました。ターナー率いるアリエルは生活のアシとしてのバイクの原点に立ち戻り、当時のスクーターブームにあやかろうとして50ccのPixie(ピクシーも、小妖精の名前です)を生産します...しかしタイミングの悪いことに、1958年にホンダが発表したスーパーカブがヨーロッパにも上陸、その圧倒的な性能で大好評を得ていました。
このPixieの大失敗が、アリエルの寿命をいっそう縮めることになります。
 悲しいことにサンビームと同じく、アリエルの名を冠した最後の車体「Ariel 3」は、BSAの車体にアリエルのエンブレムを取り付けただけのものでした...1970年を迎えるころには、オートバイメーカーとしてのアリエルは消え去っていました...


【Apparatus Criticus】
A.J.Lewis Presents Ariel Motorcycles Revisited
http://www.arielmotorcycles.com/

Motorcycles of 20th Century

http://home.planet.nl/~motors-20th-century/motors.html

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