Maker of the Month -March-
Sunbeam (1912-1956)

 1836年、ラドローの小地主の息子として生まれたジョン・マーストンは、15歳になったとき、ウォルバーハンプトンの漆器工エドワード・ペリーに弟子入りしました。23歳になったときに彼は独立し、自分で漆器業を営むようになって成功をおさめ、さらに1871年に師のペリーが死んだときにはその工場も引き継いで統合経営し、成功をおさめました。
 漆器業で大成功をおさめた後、マーストンは自転車の生産を始めます。以前に紹介したAJSもそうですが、ウォルバーハンプトンはメリデンと並ぶ当時の新興工業地帯で、「自転車」という新しい工業製品に挑む会社が多かったのです。

 自転車業の商標は、妻のエレンの提案により「The Sunbeam(陽光)」と決まりました。自転車の生産は成功を収めますが、その余波を買って乗り出した自動車生産業はあまり振るわなかったことから、マーストンはオートバイの生産を決意します。
 ....しかし。1903年から1904年にかけて、ジョン・マーストン有限会社(サンビームはこの社の商標です)は自転車にエンジンを搭載する試みをしましたが、その結果は失敗続き...ついにはテストライダーから死者が出てしまいました。

 短期間での開発は不可能と悟ったマーストンは、オートバイ生産までの繋ぎとして再び自動車を生産しつつ、さらなる研究開発を続けます。エンジンに関する技術不足を痛感したサンビームは、ローバー社とJAP社(*1)出身のジョン・グリーンウッドをエンジニアとして、さらにAJSのハリー・スティーブンス(MofM-January参照)をコンサルタントとして迎え入れました。天才ハリー・スティーブンスは要望に応え、単気筒サイドバルブ350cc,2.75馬力のエンジンを完成させます。このエンジンは2段変速トランスミッションを備え、マグネトーによる発電系も備えた当時の最先端のものでした。ジョン・グリーンウッドは主に車体の改良を加え、二次駆動系をレイノルズ製チェーン駆動に変更しました(当時の二次駆動系はベルトドライブが主流でした)。フレームはダイヤモンド・フレーム、フロントフォークはドルイド式、そして塗装は後に「サンビーム・ブラック」と呼ばれることになる、上品で深みのある黒が採用されました。

*1: JAPは、バイクの黎明期において最高のエンジンを生み出していたメーカー。トライアンフを含め、当時のオートバイメーカーはJAPのエンジンを独自のフレームに搭載することから生産を始めました。

 そしてついに最初の市販オートバイが完成したのは1912年。マーストンは既に76歳になっていました。当初の生産は全てがハンドメイドで生産効率も悪く、またサンビーム社既存の自転車販売ネットワークを通じての販売でしたから、既にトライアンフ、AJSなどによって形成されつつあった英国のオートバイ市場のニッチに食い込むまでには至りませんでした。しかし、この年の年末に開催されたロンドン-エクスター間往復レースに出場した二台のサンビームが二つの部門で優勝し、サンビームの名前が一気に知られることになります。

 翌年、初期型のものに加え、1913年にはJAP製76×85ツインエンジン(3速ミッション、6馬力)を搭載し、よりフレーム側を強化した車体も発売されました。初期型の改良も行われ、エンジンは3.5馬力にパワーアップ、さらにリアタイヤの修理が容易な数々の機構を加えて発売されました。

 これらの車体を使い、サンビームは数々のレースに出場します。ライダーでもあったエンジニア、ジョン・グリーンウッドや同僚のトミー・デラ・ヘイ、ハワード・デイビスによって数々の栄光が刻まれ、名声を不動のものにしました。
 またこの1913年、サンビームはオートバイによる登山(当時は性能を証明する手段として良く行われていました)にも積極的に取り組み、スノードン山、ベン・ネイビス山といった英国内の山や、ジャワのトサリ山(1,775m)の登頂に成功し、喝采を浴びたのです。1913年はまさにサンビームの年でした。

 しかし翌1914年、第一次世界大戦が勃発します。サンビームも軍用車両の生産を余儀なくされます。前年に生産されていたモデルはサイドカーのグロリア・ナンバー1、2を含め、全て軍用車両に改修されて出荷されるようになります。
 悪路に対しては絶大な性能を誇っていたサンビームは、開戦翌年に開かれたスタイル・コップ・ヒルクライム大会で9つのメダルを獲得しています。この悪路に強い、ということを受けてサンビーム軍用車両の出荷先は山岳地帯の多いイタリア戦線、そしてシベリアの泥濘の中を走るロシア戦線(東部戦線)でした。サンビームのサイドカーは信頼性も高く、機関銃を搭載した車両や、救命救急車も作られました。(ですが、サイドカー側に機関銃を搭載した車両は死角が多いことなどから実用的ではなく、結局まともに採用されませんでした。)

 1919年末に世界大戦は終結しますが、この年はサンビームにとっては悲劇的な年でした。年の初めに、マーストン家の三男で有能な経営者であったローランドが45歳の若さで死去します。ジョンとエレンの創業者夫妻は深く悲しみ、後を追うように二人とも亡くなってしまったのです。
 ジョン・マーストン(右上写真)はオートバイや自動車を生産する会社の社長でありながら、その生涯を通じてオートバイにも自動車にも乗りませんでした。...理由は「危険だから」。結局、彼の移動手段は常に自転車、あるいは(足こぎの)三輪車でした。
 マーストンは非常に有能な経営者でしたが、徒弟制度の中で叩き上げた、職人気質のガンコ者でもありました。従業員がミスをすると無表情に「出て行け。」と言いつつ、ゴミの山にその従業員を投げ飛ばしたりすることもありました。ですが、敬虔なキリスト者でもあり、乱暴なだけの人物でも無かった様です...やはり立志伝中の人物、というところでしょうか。

 1919年11月、休戦協定が結ばれ、各国は兵士の復員を始めます。各企業に対する戦時動員令も解かれ、サンビームは社員の復員と同時に本来の企業活動を許されます。ガタガタになっていたサンビームの経営体制を立て直したのは、父・ジョンの命によりビリヤース社に奉公に出され、同社で頭角を現していたマーストン家の長男、チャールズでした。彼は世襲をよしとせずに、あくまで投資家としての立場に身を置き、実務は父の右腕だった人々に託したのでした。これによって正常な会社機能は速やかに回復し、サンビームはベルサイユ講和の後、ノーベル工業(英国の大手化学工業社)の参加となり、政府の支援も受けて立ち直り、ただちにカタログを発行します。戦時下に生産されたモデルも上手にモディファイしつつ、多様な車種を含んだラインナップは、戦争の痛手から立ち直っていない工業界の中では出色の存在でした。
 この年には早くもオートバイレースが再開され、戦前と同じくサンビームは素晴らしい成績を収め続けました。そして翌1920年、トミー・デラ・ヘイの駆るサンビームレーサーは念願だったマン島TTの制覇を成し遂げたのでした。
 その後、1922年には再びマン島で勝利したサンビーム。しかし1926年、親会社であるノーベル工業の側から暗雲が立ちこめ始めます。ノーベルを含む英国化学企業4社が企業合同してICIとなったことで、オートバイ製作部門である子会社、ジョン・マーストン有限会社は軽視されるようになりました。結果として生産の質は低下し、オートバイのロールスロイスと巷間で言われるような高級感は無くなってしまいました。

 そんな中でも1928年にサンビームはみたびマン島で勝利します。しかし、1930年、ジョン・マーストン死後の経営を一手に担ってきたシドニー・バウアーが病気に倒れ、グラハム・ベリンガムが後を継ぎます。しかしこの頃には時代遅れになっていたサンビームの車体は売れ行きがどんどん落ちていきました。1931のラインナップでは、最盛期には11機種以上あったものがわずかに4機種に減少していました。さらに追い打ちをかけるように、ジョン・グリーンウッドが引退します。実質的にサンビームの機能と美しさが両立した車体は彼の才能によるものでしたから、この後は凋落に一層の拍車がかかるようになりました。

 1935年、遂に親会社のICIはオートバイ部門の売却を模索し始めます。しかし、ICIは工場の設備は他に転用できると考え、工場以外の部分-会社、ブランド、技術そして開発スタッフ-を売却しようとしたのでした。翌1936年、AMC(Associated MotorCycles Ltd.)がこれに応じ、社を買い取った上で二分割し、ロンドンにサンビーム自転車(Sunbeam Bicycles Ltd.)とサンビーム自動二輪車(Sunbeam Motorcycles Ltd.)を設立します。AMCは製品の質的向上に尽力したため、サンビームのブランド名は再び高い評価を受けるようになります。

 しかし...第二次世界大戦勃発。サンビームも軍用バイクを作るようになります。そしてそんな中でジョン・マーストン有限会社は経営を離れ、BSAが生産体制と販売網を傘下におさめます。と言っても、当時生産を許されたのは軍仕様の従来モデルだけでした。(もうおわかりでしょうが、自転車やオートバイの旧車ファンが「BSAでは無く、ホンモノの●●だ」ということが多いのは、当時の国策もあってBSAが英国内の各種企業を統合支配していたからです。)

 そして戦後1946年。開発陣が戦時中に暖め続けたアイディアを具現化した「S7」が発売されます。縦置きバーチカルツイン500cc、二次駆動にシャフトドライブを用いたこのマシンは、「紳士のためのツアラー(Gentlemen's Tourer)」として好評を集めます。後にはS7のバリエーションモデルやS8もラインナップに加わりました。随所にBSA Aシリーズのパーツを用いていましたが、全体のバランスは非常に良く、当時としては異色の太いタイヤと相まって、高速域でも抜群の安定性を示しました。

 この好評をかって、後継機としてS9,S10も計画されました...しかし、1956年。資金面の問題から、BSAは突然、サンビーム製品の生産終了を通告します。

 S8の生産が終わった後も、1959年までBSAはサンビームの名前をスクーターに用いました。一時は世界最高の品質と高級さを誇ったブランド名の最後としては、非常にもの悲しい結末であったと言えるでしょう。



【Apparatus Criticus】
Wolverhampton History & Heritage Society
http://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/

Classic Glory.com

http://www.classicglory.com

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